Anni’s blog

日々の学びの記録として/また10年前の自分、或いは10際下の弟に伝えるように、これまでや日々の経験・学び・思考(たまに甚だしい戯言)を記していきます。

ノートテイカー体験記 (モノの見方ってすぐ固まっちゃうなあ_φ(´ ` ))

 

学生の一時期、”ノートテイカー”というものをしておりました。

普段自分が触れない世界や学びを自分の世界に入れるのって学びが多いです。

 

 

要約

 聴こえない人の前で「聴いてませんでした」なんていって居眠りしていた健聴者を見るとぶっ飛ばしたくなります。

 

でも、毎日おんなじ情報おんなじ日常に触れ続けていくと あたかもそれが当たり前のことだと思い込んでしまうのは、それこそ当たり前ですよね。そして個人的にはこれほど恐ろしいこともない。見る世界がみんな違うこと、そしてそれを認識していくにはたま〜に自分からよいしょと動いてみるしかないのでごわす。

 

そもそもノートテイカーとは 

聴覚に障がいのある学生の授業サポートとして、授業中に先生の声などを含む周りの音をその生徒の”耳がわり”としてノートやパソコンに出力することを一般に「ノートテイク」をいい、その役割を担う学生のことを「ノートテイカー」と呼びます。

 

タイピングが得意な人はパソコンで行う方が早くていいですが、私は当時まだまだ爆遅だったのでノートでした。どちらも選べ、授業前に道具は事務局から借りられます。

(※手段・方法は様々です。下記の画像はあくまで一例です。)

 

ノートテイカー

ノートテイカーの役割ー(聴覚障がい学生のサポート)

ノートテイク

ノートテイクの一例(要約筆記)

ノートテイカーをして気づく「当たり前」の違い

さて、ノートテイカーはあくまでもその学生の耳がわりです。

もし彼女が居眠りをしていた場合には書く義務・必要がありません。

同時に、授業とは関係ないような雑談や周囲の音なども余裕がある限りはめいっぱい書いていくことが望ましいとされています。あくまで”耳がわり”です。

 

まんま”耳がわり”をすることに初めて苦痛を感じたのは、後期の授業も後半に差し掛かっていたある日の午後でした。

 

いつも通りペアのノートテイカーの子と、サポートする聴覚障がいのある子と授業受けていた時、丁度交替でメインノートテイカーが私の番になり、より一層ペンと耳に力を込めた瞬間ーー

 

教授    「......では、265ページを一番後ろの方から一文ずつ呼んでください。」

生徒A 「... ...」

教授    「隣の方、起こしてくれますか?」

生徒A 「...すいません、聴いてませんでした」

 教授   「...えー、じゃあ、隣」

生徒B 「スイマセン、何ページすか」

 

は??

聴いてませんでしたぁ????

 

私の隣で、聴こえない彼女は一生懸命、一番前の席に座り(何が書かれているのかな、何が起きているのかな)と紙を覗き込むわけですよ、

そこに『聴いてませんでした』と書かれている。上記の会話、まんまワシが書くわけじゃい。ジャイじゃいジャイ(^ ^)♪💢

 

某H●NTER×HU●TERの某レ●リオの念能力さえ持っていたら、某●ンをぶっ飛ばして「●●●●●●●!!」とやっているところです。命拾いしたな。私が念能力を持っていなくて。本当によかったな。

  

ノートテイク

ノートテイクの様子

実は以前から、ここまではなくとも(おいおい)と思うことはあったんです。

訊かれたことに対して無言の有象無象ども。

そんな時もノートにはこんな感じで書くんです。書かにゃならんのです。

 

【T:じゃあこの理由はなんでしたっけ?家庭科の実践教育行うにあたっての、先週したところです

S1:..........

T:分かりませんか?

S1:......

T:125ページの?

S1:あ、『教案作成については...』】

 

しゃべれ。

最初から喋れーー!!!

ちゃんと耳ついとるっちゃろーもん?

聞えとるっちゃろーもん?

 

ーーーーー

 

...でも確かにこの時私は、不真面目な学生に怒りをぶつけているように見えて普段の自分に対しても多少怒っていました。

 

私だって全ての授業を生真面目に受けているわけではありません。

疲れていたり少し気を抜いたりして聴き逃してしまうことなんて私でもたまにありました。

なんならノートテイクを受けている聴覚障がいの彼女自身も、普通に居眠りしちゃっていることがあり、そんな時はペアのノートテイカーの子とちょこっとニヤつきながら、(あはは、寝ちゃったね(^ ^))なんて目配せし合ってノートに書く手を止めます。

 

 

つくづく、自分から意識したりそうできる環境にいないと視点が固定化されて思考停止してしまうなと感じます。

こういう体験をした時は特に。

 

たまに違う視点を自分から入れたいよね

自分もともすると、考え方・思考パターンや自分にとっての日常が普遍的なものだということを他の人間に対しても当てはめてしまうことはある。

それが非常に危険なんだということ、これだけでも認識はしていたい。いやむしろそれだけでまずいいかもしれない。

考え方を自分の中の狭い当たり前のなかに無意識に押し込めてしまうという現象だけでも認識していたい。

 

 

この間テレビで『電話リレーサービス』というものの利用について初めて知った。

聴こえにくい方・聴覚障がいの方が電話を利用する際に、間に手話&会話ができるオペレーターが入りインターネットを通してリアルタイムの画面で電話利用者双方の間を通訳としてとりもつというもの。

 

この便利な電話リレーサービス も海外では利用できず、コロナの影響で留学先から帰国せざるを得なくなった聴覚障がいの学生さんが航空機のチケット購入・問い合わせの際に大変困ったというものだった。

こういう出来事、普段自分から触れたり見聞きしなければ、私たちには無の存在に等しい。でもこういう世界を知っていないとどんどん自分の世界が狭まっていく。

 

自分で当たり前だと思いこんでいることほど恐ろしいものもないなあと、色んな世界を知るたび思う。

多分生きるのに困らんのなら知らなくていいことなんて沢山あるんだけども、どうせ今生きているのなら、たま〜にでも自分から知らない世界や視点に触れたいな、と

そういう自分でいたいなと、個人的に考えが至りました。

 

 

私が「ほんとにそうっすよね」と、この視点持ってたいなと感じた台詞にアニメのBACCANO!の登場人物で新聞社の副社長であるギュスターヴ・サンジェルマンのこういう言葉があります。

 

(CV:若本規夫

「...だがなキャ〜ロルゥ、誰を中心に据えるかで同じ事件はぁ、千変万化に姿を変える。つまり事件は一つ、けれど物語はそれに関わった人の数だけあるのだ。」