Anni’s blog

日々の学びの記録として/また10年前の自分、或いは10際下の弟に伝えるように、これまでや日々の経験・学び・思考(たまに甚だしい戯言)を記していきます。

演劇力向上ワークショップ体験記~第1章!!~ (2章はないです)

   

演劇のワークショップに参加しました

市民文化会館で行われる演劇力向上ワークショップに参加したことがあります。

 

全十数回の参加後、実際にある劇団の舞台の前座として十数分演劇をさせて頂くというプログラムでした。当時疲れて正社員の仕事を辞めた後、ナイトフロントのバイトを始めた頃でした。日中は時間がつくれるし、気分転換&いい経験になるはずだと書類選考を受けて無事参加できました。(そりゃそうじゃ、なんですが応募にあたり全身写真を撮らねばならぬというのがちょ〜恥ずかしかったです)

 

参加者の殆どが高校の演劇部員、ガチ勢の方々でした。(◎_◎)スゴイ

 

なんなんでしょうね...一人でいる時の武者震いは、一定の集団の中へ飛び込むと持ち前のビビリに変換され戻ってきます。とっておきの経験も一度きりの参加となってしまいました。

全てのプログラムを終えたらもっと素敵なことが学べたのでしょうが、1回の参加(オリエンテーション)でも学びが多かったので記録として残しておきます。

 

 講師(先生)はなんと劇団昴の方...!(私の好きな俳優宮本充さんが所属されている有名劇団...!!《鼻血》)

 

 心に残った先生のことば

⬇︎演劇だけでなくこれからの生き方にも通づるなと感じた先生の言葉⬇︎

・【挨拶や礼儀をしっかりする】

・【"自分のいる場を安全にする"】

・ 【"考え抜く"】

 

 

挨拶や礼儀をしっかりとすること

演劇というものは演者だけでなくその場所を提供してくれている方、道具を管理してくれる方、などなど色んな人の協力で完成する。だから感謝を忘れてはならない。そして現場へ入ったら元気いっぱいに挨拶をすること。 

そうやってひとつの素晴らしい演劇が出来上がるのだというお話を聴いて、どんなことやるにしてもそうだなあと、こんな当たり前のことができん大人は結構いるなあとそんなことを思いました。言われたらそうなのになんでこんな当たり前のことを大人はできなくなるんでしょうねえ...

 

自分のいる場を安全にすること

演劇として何かの役を演じるという行為を恥ずかしがっていてはどうしようもない

自分のもてる全力を全て出し切れるようにするためには、精神的に今自分がいるこの場所が安全な場所であるという安心感がとても大切。

そのために共に活動してゆく仲間とのコミュニケーション

 仰る通りとしか言いようがないのですが、そうやって自分の居場所を安全にするという積極的なアクションを取ることを意識しておらず「それ、めっちゃ大事やん」と納得しました。

そしてその日は、自分の居場所であるこのチームの中で自分が安全を感じ演劇ができるように、コミュニケーションをとりながらの柔軟やゲーム・レクリエーションなどが時間をとって行われました。

 

イデア(や面白いこと)思ったことについて更に考え、そこから更に考える

何かアイデアを出してみた時、或いは何か面白いと思うことを考えつこうとして考えた時、それはすんごくよく考えたものなのかもしれないけれど、往々にしてそういう最初に考えつくものというのは誰でも思いつくようなこと。そして既に誰かがそれらを具現化している場合が多いということ。

だから、そこから更に考え抜くことが必要になる。そうして出てきたアイデア、面白いと思ったことについて、更に、もっと面白くならないか考える。最初のものから更によく考えたアイデアであっても、それが面白いと思ったものであっても、はてさて最初よりは程度が減るかもしれないが矢張り同じような考えを持った人がまだまだいるから。

 これまたとてもタメになる、取り入れたい考え方でした。

題材についての焦点のあて方、角度、表現の仕方、これらを演じる仲間とともに出していくとき確かに必要になる考え方のように思えます。

演劇以外であっても、日常生活をちょっと面白く出来ないかとか、何か自分から発信するときとか、誰かを喜ばせたいだとか、仕事をより創造的にするだとか、色んな場面で使える姿勢のように感じます。特に自分が何かコンテンツを創り出すとき、それを発信するときには是非とも使いたい考えです。

 

 

最後に

「これから演劇をするときにこれらのことを忘れず心に入れておいて下さい」と先生。

さて、これからいよいよこの言葉たちを胸に演劇を......!!

 

 

 

 

始めません...

 よくないですね

ほんとによくないです。

 

 

参加者の殆どが顔なじみで演劇部の高校生の子たちということ、皆んなと喋ってとても楽しかったけどこれから輪に入れるか不安に感じたということから、どうしようもないヘタレの私は、結局、仕事が忙しくなってしまい今後参加できなくなりましたなんて常套句(じょうとうく)を使い逃げるように参加を辞めてしまったのです。

 全然自分のいる場を安全にできていませんね笑

 

しかし一度きりとはいえとてもよい経験になりました。

性格はそう簡単には変えられませんのです...

 

ほんとに意識高い系で書類には「自分を変えたいのです(キラキラ✨)」を書きつけ書きつけしておりました。

 

こんな感じでこれからも、知らないことに勇気を出して飛び込んで、途中でやっぱり大勢の流れの方へ日和(ひよ)って水から上がって逃げ返ったりを繰り返してゆくことでしょうが、どうぞこれからも宜しくお願いいたします。m(_ _)m

 

ノートテイカー体験記 (モノの見方ってすぐ固まっちゃうなあ_φ(´ ` ))

 

学生の一時期、”ノートテイカー”というものをしておりました。

普段自分が触れない世界や学びを自分の世界に入れるのって学びが多いです。

 

 

要約

 聴こえない人の前で「聴いてませんでした」なんていって居眠りしていた健聴者を見るとぶっ飛ばしたくなります。

 

でも、毎日おんなじ情報おんなじ日常に触れ続けていくと あたかもそれが当たり前のことだと思い込んでしまうのは、それこそ当たり前ですよね。そして個人的にはこれほど恐ろしいこともない。見る世界がみんな違うこと、そしてそれを認識していくにはたま〜に自分からよいしょと動いてみるしかないのでごわす。

 

そもそもノートテイカーとは 

聴覚に障がいのある学生の授業サポートとして、授業中に先生の声などを含む周りの音をその生徒の”耳がわり”としてノートやパソコンに出力することを一般に「ノートテイク」をいい、その役割を担う学生のことを「ノートテイカー」と呼びます。

 

タイピングが得意な人はパソコンで行う方が早くていいですが、私は当時まだまだ爆遅だったのでノートでした。どちらも選べ、授業前に道具は事務局から借りられます。

(※手段・方法は様々です。下記の画像はあくまで一例です。)

 

ノートテイカー

ノートテイカーの役割ー(聴覚障がい学生のサポート)

ノートテイク

ノートテイクの一例(要約筆記)

ノートテイカーをして気づく「当たり前」の違い

さて、ノートテイカーはあくまでもその学生の耳がわりです。

もし彼女が居眠りをしていた場合には書く義務・必要がありません。

同時に、授業とは関係ないような雑談や周囲の音なども余裕がある限りはめいっぱい書いていくことが望ましいとされています。あくまで”耳がわり”です。

 

まんま”耳がわり”をすることに初めて苦痛を感じたのは、後期の授業も後半に差し掛かっていたある日の午後でした。

 

いつも通りペアのノートテイカーの子と、サポートする聴覚障がいのある子と授業受けていた時、丁度交替でメインノートテイカーが私の番になり、より一層ペンと耳に力を込めた瞬間ーー

 

教授    「......では、265ページを一番後ろの方から一文ずつ呼んでください。」

生徒A 「... ...」

教授    「隣の方、起こしてくれますか?」

生徒A 「...すいません、聴いてませんでした」

 教授   「...えー、じゃあ、隣」

生徒B 「スイマセン、何ページすか」

 

は??

聴いてませんでしたぁ????

 

私の隣で、聴こえない彼女は一生懸命、一番前の席に座り(何が書かれているのかな、何が起きているのかな)と紙を覗き込むわけですよ、

そこに『聴いてませんでした』と書かれている。上記の会話、まんまワシが書くわけじゃい。ジャイじゃいジャイ(^ ^)♪💢

 

某H●NTER×HU●TERの某レ●リオの念能力さえ持っていたら、某●ンをぶっ飛ばして「●●●●●●●!!」とやっているところです。命拾いしたな。私が念能力を持っていなくて。本当によかったな。

  

ノートテイク

ノートテイクの様子

実は以前から、ここまではなくとも(おいおい)と思うことはあったんです。

訊かれたことに対して無言の有象無象ども。

そんな時もノートにはこんな感じで書くんです。書かにゃならんのです。

 

【T:じゃあこの理由はなんでしたっけ?家庭科の実践教育行うにあたっての、先週したところです

S1:..........

T:分かりませんか?

S1:......

T:125ページの?

S1:あ、『教案作成については...』】

 

しゃべれ。

最初から喋れーー!!!

ちゃんと耳ついとるっちゃろーもん?

聞えとるっちゃろーもん?

 

ーーーーー

 

...でも確かにこの時私は、不真面目な学生に怒りをぶつけているように見えて普段の自分に対しても多少怒っていました。

 

私だって全ての授業を生真面目に受けているわけではありません。

疲れていたり少し気を抜いたりして聴き逃してしまうことなんて私でもたまにありました。

なんならノートテイクを受けている聴覚障がいの彼女自身も、普通に居眠りしちゃっていることがあり、そんな時はペアのノートテイカーの子とちょこっとニヤつきながら、(あはは、寝ちゃったね(^ ^))なんて目配せし合ってノートに書く手を止めます。

 

 

つくづく、自分から意識したりそうできる環境にいないと視点が固定化されて思考停止してしまうなと感じます。

こういう体験をした時は特に。

 

たまに違う視点を自分から入れたいよね

自分もともすると、考え方・思考パターンや自分にとっての日常が普遍的なものだということを他の人間に対しても当てはめてしまうことはある。

それが非常に危険なんだということ、これだけでも認識はしていたい。いやむしろそれだけでまずいいかもしれない。

考え方を自分の中の狭い当たり前のなかに無意識に押し込めてしまうという現象だけでも認識していたい。

 

 

この間テレビで『電話リレーサービス』というものの利用について初めて知った。

聴こえにくい方・聴覚障がいの方が電話を利用する際に、間に手話&会話ができるオペレーターが入りインターネットを通してリアルタイムの画面で電話利用者双方の間を通訳としてとりもつというもの。

 

この便利な電話リレーサービス も海外では利用できず、コロナの影響で留学先から帰国せざるを得なくなった聴覚障がいの学生さんが航空機のチケット購入・問い合わせの際に大変困ったというものだった。

こういう出来事、普段自分から触れたり見聞きしなければ、私たちには無の存在に等しい。でもこういう世界を知っていないとどんどん自分の世界が狭まっていく。

 

自分で当たり前だと思いこんでいることほど恐ろしいものもないなあと、色んな世界を知るたび思う。

多分生きるのに困らんのなら知らなくていいことなんて沢山あるんだけども、どうせ今生きているのなら、たま〜にでも自分から知らない世界や視点に触れたいな、と

そういう自分でいたいなと、個人的に考えが至りました。

 

 

私が「ほんとにそうっすよね」と、この視点持ってたいなと感じた台詞にアニメのBACCANO!の登場人物で新聞社の副社長であるギュスターヴ・サンジェルマンのこういう言葉があります。

 

(CV:若本規夫

「...だがなキャ〜ロルゥ、誰を中心に据えるかで同じ事件はぁ、千変万化に姿を変える。つまり事件は一つ、けれど物語はそれに関わった人の数だけあるのだ。」

 

原爆で亡くなった方の数だけ黒丸を描きそれに囲まれて黙祷する他,長崎出身者の平和教育体験記

 

 

長崎出身の私が受けてきた平和教育と、そこから身をもって感じた「本物の”教育”」「本物の”伝える”」ということ

 

はじめに 

長崎

長崎生まれだからこそ伝えるべきことがある

 

大学生の時、石川県のとある有名な温泉街で旅館のインターンシップに参加したことがあります。その地に関する学びの一環として、数十年も昔からこの地の観光案内係をしているというおじさんにその地について話をしていただく機会がありました。

ふと出身を訊かれた私が自信を持って「長崎です」、と話すと、その人は「ああー、長崎ねー、あそこは爆弾でなーんも無くなってしまったとこやろ」と言い放ちました。少なくともそこに悲しみや同情のような感情は感じ取られませんでした。恐らく、完全なる悪意があった訳ではなく(...そこに比べてここはいい町)という潜在的な想いから自分の町の良さを強調したかったのでしょう。しかし、その無神経さには思わずぶっ飛ばしてやろうかという気さえ起きました。

 

こんにちは、初めまして。

Suzushima Anniと申します。私は長崎出身です。

皆さんは、「長崎」ときいてどんなイメージを思い浮かべますか。

カステラ、ちゃんぽん、皿うどん、中華街に異国文化...。色々ありますね。

 

一方で冒頭の話に出てきた”負の遺産”と言われるような原子爆弾(以下、「原爆」とする)のイメージを持つ方も多いのではないでしょうか。

 

そしてそういう「重い話」は特に触れたくないし想像するのは辛いと思います。

積極的に入り込むのも語るのもしんどいです。

でも、だからこそ、どうか年に一度くらい、ちょこっと考えてみませんか。

お手元にお気に入りの飲み物でも置いて読んで頂けたらと幸いです。

 

長崎出身として、これまでに経験した平和学習や私にしか伝えることができない肌感覚などを伝えたいなと思っています。

 

文章がヘタクソでごちゃごちゃしていますが、自分の言葉で、自分が伝えたいことを書きました。何か一つでも、知らなかった視点や体験を感じていただけたら、自分なりに考えや感想を持っていただけたら幸いです。

 

この記事について

一番伝えたかったこと(超訳) 

長崎県に生まれ、平和教育では他の地域ではないような平和学習も体験してきた。特に原爆による死者の数を実際に黒い丸で表して学校の体育館に上から張り出したあの体験は非常に胸の奥にまで残る体験で、これこそが『教育』と言えるべきものなのだと思った。」 

 

以上!!

  

ホントは、これだけ伝えるつもりでした。一番伝えたかったことには間違いありません。これを簡潔にまとめてtwitterにでも挙げようか程度に最初は思っていました。

しかし、この体験を一度ひとたび思い出し振り返ると、そこから派生して他の平和学習体験についても考えが及び、記憶はどんどん溢れ出し、あれも伝えたいこれも伝えたい...と自分の想いが溢れてしまいました。

 

そうして、緩急のない「全部結論」みたいな以下に続く一生懸命でとりとめのない文章が出来上がりました。どうぞ気軽に、そして大目にみて下さいませ。

 

書こうと思った理由・目的

この記事を書こうと思った理由は、カッコつけて言うならば「危機感からくる使命感みたいなものがあったから」です。噛み砕いて説明すると、

「今だからこそ、長崎出身の私だからこそ伝えられる強烈な平和学習の体験とそれらについての自分の考えを伝なくちゃいけない、一人でも多くの方に改めて昔の戦争や平和について考える機会を作ってもらいたいと思ったから」です。

 

前節の「はじめに」でご紹介した観光案内係のおじさん。

「ああ、全く触れない人間からすればこのような感覚なのか。」と実感しました。

しかしこれは別に珍しいことではないと思っています。むしろ自然なこと。

そして人間は一度「遠いもの」と距離を置いてしまうと思考停止で考えなくなります。

 

ふと新聞を見た時に目に留まった、2017年にある日の新聞の中で見た宝島社の広告が忘れられません。

左半分に真珠湾の写真、右半分に広島のキノコ雲の写真。そしてその下に書かれてあった言葉。

忘却は、罪である。

人間は過ちを犯す。しかし学ぶことができる。世界平和は、人間の宿題である。

宝島社

 とてもドキリとしました。とても本質的な言葉だと思いました。

 

ここでもう一度、どうして私があの時おじさんを「ぶっ飛ばしたい」とまで思ったのか、具体的に理由を考えてみると、

・私が原爆の恐ろしさや平和について受けてきた教育の蓄積についてはその人よりも自信があったから余計無知について怒りを覚えた。受けてきた平和教育の深みが違う。

・私より前の世代の人でも興味がない人は興味がなく、詳しいことを恐らくは知らないであろうことに危機感を覚えた。

そしてここまで考えてふと、「私自身も、話に触れられるまではすっかり忘れていた。昔受けてきた平和教育の内容を次第に忘れてしまっていっていた。」ということに気付きました。つまり、

・自分自身対しても大切なことを忘れ去ってしまっていることに怒りのようなものが込み上げ、それが余計に頭にきて「ぶっ飛ばしたい」になってしまった。(ここだけおじさんとばっちり)

 

そうです、次第に戦争のことや原爆のことを忘れていってしまっていることに対しての危機感を感じました。忘却自体はいち生命体として自然なことですが、それを前提として語り継いでいくというところまでをしなきゃいけんのではないか、と感じたのです。

 

私は現在24歳です。これからお伝えする平和学習の内容は小学生当時のことなので12〜17年も昔の出来事です。その時すでにご高齢であり、”直接”原爆を経験したかたさんは現在もう殆どすべての方が亡くなってしまっているでしょう。

 

私はミレニアル世代とかいう、所謂いわゆるデジタルネイティブ(生まれて物心がつく頃にはインターネットや携帯が当たり前のようにあった)世代だそうです。

そしてそれと同時に、直接の戦争体験を直接受け継いだ最後の世代でもあるのではないかと思いました。

 

だからこそ改めて、そういう立場にいる私にしか出来ないことをしなくては。

ちゃんと私が受け継いだ体験と想いを伝えなくては。そしてそれをずっと文字という残る形で記録しておくことは自分にとっても読んで下さった方にとっても何かしら意味のあるものになると信じて書きました。

  

この記事の目的は、

被爆地である長崎の平和教育を私の体験を通じて伝え、記録として残すこと

・受けた平和教育についての私の考えと、それに関連して教育の在り方についての考えも伝えること

・以上のことにより読者の方だけでなく執筆者の私自身も改めて平和や原爆について考える思考を深める機会をもつこと

の3点です。

 

 あくまでいち長崎人の体験です。当然のことながら同じ長崎県内であってもその平和教育の内容は様々です。一つの参考としてご覧下さい。

 

この記事を読む意義

「意義」だなんて烏滸おこがましいことを言ってしまいました。

前節の目的と重複するかもしれませんが、被爆地である長崎県ではどのような平和教育が行われていたのかを知っていただき、「原爆」という恐ろしい出来事に対して資料館に行って学ぶようなものではなくより近いものとして感じていただければと思います。

 

他の地域の方が長崎の平和教育を知らないのと同様に、私も長崎以外の地域での平和教育については知りません。違った教育や学びがあれば是非コメントなどで教えていただきたいです。

 

もしかしたら今改めて原爆について直接調べるのが怖いという方もいらっしゃるかもしれません。なぜなら「原爆 平和教育」などで検索すると「トラウマ」というワードが上位に入ってくるからです。トラウマが残るかに関して、そのトラウマレベルとされることも見聞きした立場から個人的に言えば、間違いなくトラウマになるかと思います。なので、この記事にある平和教育の体験を読むことから学びを始めてもいいかもしれません。

  

「意義」に関して他に無理やり提供するとしたら、「自分の使命は何かなかったか?」と考える機会の提供でしょうか。

 

私の出身地では今までに宗教弾圧で多くの人が亡くなり、原爆という戦争でも亡くなり、山の噴火という自然災害でも亡くなりました。その度に「この地で生まれたからには他の人よりもそれらを伝えることに使命を感じましょう」と教えられました。とかく大人は子どもに想いを託しがちです。まあそれがどうこうは置いておいて、現に今私も私なりに使命感を持ってこの記事を書いています。

 

少なくとも平和学習の時間を、国語や算数みたいな面倒な授業よりラクな授業だった、で終わらせてはいけないと子どもながらに思ってはいました。

 

ちょっと大げさかもしれませんが、この記事を読み終わった後に、改めて自分の使命や生きる意味というものについて立ち止まってふと考えてもらえたら、それはもしかしたらちょっぴり、いや、とても素敵なことかもしれません。

 

私が受けた平和教育(やっと本題)

8月9日といえば夏休み期間中ですが、長崎ではこの日が登校日です。原爆が投下された時刻にサイレンに合わせ黙祷を捧げたり、教室で戦争や原爆を題材としたアニメ・ドラマを観て平和について考えたりします。

しかし勿論、その日以前の学校での平和学習も沢山あります。

中学や高校でも平和教育は勿論ありますが、全て挙げると枚挙にいとまが無いので、以下では最も印象深く記憶に残っている、私が小学生の時に経験した平和学習についてご紹介します。是非ご自身の学習体験を振り返り比べながらみて下さい。 

私にとって衝撃的だった原爆の伝え方

私が平和学習で、原爆の恐ろしさを実感することにおいて一番強く印象に残っているのがこの体験です。

(もしかしたらペンではなくシールだったかもしれませんがそのどちらかではあったと思います。十数年前なので手段の記憶が少し曖昧ですがご容赦下さい。)

 

手順としては至極シンプル

  1. 紙とペンを用意する
  2. 原爆の死者数の数だけ紙に黒丸を描く
  3. 繋ぎ合わせ、体育館に張り出す

 これだけ。

 

でもこのシンプルさこそがとても強烈でインパクトのある体験になりました。

「かけがえのない命」がたった直径2、3cmほどの只の黒丸に置き換えられるわけですが、それが原爆による死者数分集まるととんでもなく恐ろしいものに思えて仕方がありません。

 

死んだ人間の数だけその黒丸が私達を取り囲む。それが広島の死者数なのか長崎の死者数なのか合計なのか、そこまで詳しくは覚えていないけど、ものすごい光景であったことだけは今でもはっきりと覚えている。

この時に感じた凄まじさ、おぞましさ、といったら、もう。言葉にできない。

自分がいる空間を無数の黒丸に囲まれている時、私は深く息が出来なかった。

 

小学生当時の私の感じ方としては、「早くこの場所から逃げたい」だった。

友だちと雑談しながら紙の上に作っていった黒丸は、今や間違いなく、のうのうと生きている私を責めているような気がしてならなかった。

当時 感受性が豊かな子だとは言われていたが、ここにきて矢張り私は色々なことを考えずにはいられなかった。黒丸は無念な人々の亡霊のように思われたし、目のようにも思われた。この空間のどこかに、もしかしたら亡くなった方の霊がいるかもしれないとも思った。

 

大げさだと思われるかもしれないが、当時の真剣な感情だった。

 

死んだ人間の数を具体的に可視化するととんでもない。

そんな当たり前のこともこうまでしないとわからない。

平和学習

黒丸(原爆死者数分)を描いた紙を貼り合わせたものを体育館の二階から降ろし張り出す。

この空間に囲まれて原爆や平和についての話を聴く。

「ああ、あの一瞬でこんなに沢山の方が命を奪われたのか」

私が抱いたこの感情は、ただ単に口頭のみの伝聞により単に「知った」ためではなく、間違いなく「身をもって」痛いほどに「実感」し「理解」した上で自然に出てきた感情だった。

 

いつまで経ってもあの時感じたおぞましさはまだ私の中に残っている。

 

今考えても、「ああ、これが教育か。」と後になってもそれが実感できる。

 

「原爆により広島県では14万人が、ここ長崎県では7万人以上もの方が亡くなりました。だから原爆というのは恐ろしいものです。だから戦争をいうものはしてはいけません」と小学生に教えたところで、てんで子どもたちに実感が沸くはずもないのは考えてみれば当たり前のことでしょう。

「いっぱい亡くなったんだなあ」ということはなんとなくわかるでしょうが、事実としてなんとなく「知る」までが限界でしょう。

だって、恐らくお小遣いで貰う数字の単位といえば100や1000の規模であろう小学生に、いきなり数万人とか言って実感もって理解してもらおうなんて考えてみれば滑稽な話です。

 

自分たちの手で実際に原爆の犠牲者を可視化して初めて、その悲惨さに気付く。

それを身をもって感じたのがこの一連の体験でした。

 

正直なことを言うと、当時どこかほんの少しだけ、「感動」している自分がいたことを自覚していました。勿論、こんなに沢山の命を奪う爆弾すごい、みたいな感情は決してありません。少し不安になったけど、こうして言語化していく過程で漸くわかった気がしました。その感動というのは、漠然と知るだけではなくしっかりと実感をもって原爆の恐ろしさを「理解」できたことからくる感動だったのだと今になって思います。

 

直感的に感覚的に体全体で学ぶこの平和教育は、今でも自分の中で貴重な体験になっています。

 その他の平和学習 

改めて振り返ると、平和について学ぶ機会とその内容の種類が多いことは長崎県出身であるがゆえであり、その点では感謝したいです。

 

  • 戦争や原爆などのテーマで調べ学習をし発表・戦争アニメや映像で学ぶ

「総合の時間」などを使ってよくあるような内容かもしれません。

各班ごとに模造紙に絵やグラフ・文章などで調べ学習の成果を発表するというものです。

私たちの学校でもこの平和学習のための総合の時間はたっぷりととってありました。

発表内容は例えば、長崎と広島それぞれに投下された爆弾(ファットマンとリトルボーイ)の違いとその被害について調べたり、またある班は放射能によりどのような人体への被害が出るのか調べて発表するなどがありました。

 

平和学習として他によくあるのは戦争アニメの視聴でしょうか。

非常に残酷なシーンも出てくるため今でもトラウマではありますが、後でお話しする実際の体験者(かたさん)のお話しでも同じような描写があったことから、その悲惨さを学ぶ手段の一つとして勉強になると思います。

 

しかし2013年にはとある市の教育委員会が漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を要請するといった問題が話題になることもありました(現在は撤回されているようです)。私達より前の世代の人間もこれからの世代に対し責任を持って伝えることを避けたがる風潮が出ている気がしてなりません。

当時教育委員会が提出した閲覧制限の理由として「日本軍のありもしない蛮行や天皇に対する屈辱などがある」等が挙げられていたようです。これについて私は、「だから排除する」のではなくて「本当にそうなのか自分で調べてみる」、そこまでが戦争や平和についての教育だと考えます。「はだしのゲン」も「水筒」も読んだ記憶がありますが、こうした戦争を伝える漫画が一方的な価値観で閲覧禁止にされるのは許されることではありません。

思考停止させて一方だけ鵜呑みにさせる、日本国民にとって誰かにとって不都合と主観的に感じたからその情報にアクセスさせないようにする、と言うような思想は一見それによって彼らを守っているように見えて戦争を自分側に寄せ付けない、過去のものとしか考えていない現実逃避のようなものを感じます。

東学農民戦争の書籍なり何なり色々調べてみるといいです。被害の立場からも加害の立場からも、色々な視点で戦争について考えていくように導くのが本来の教育だと考えます。

 

こちらは、いかがでしょうか。全国全ての学校である体験でしょうか。

 

集会室の端から端までキャスター付きのパーテーションを並べ、そのパーテーションの表裏にそれぞれ被爆地や被爆者の写真を貼り付け展示する。児童はそれを見て戦争の恐ろしさを実感するというものでした。

 

記憶では、多くは被爆者の写真でした。その写真の中で最も強く記憶に焼き付けられているのが、黒焦げの炭になってしまっている小さな赤ちゃんの写真です。

焼け野原になってしまった場所で人々が悲痛な叫びをあげているような写真などだけでなく、実際に具体的にどのように亡くなったのかを写真で学びました。当時低学年だった私は非常に気分が悪くなってしまいましたが、それほど強烈なだけに爆弾の脅威を痛いほど感じることが出来たのだと思います。

 

「3000度の熱線が人々の体を一瞬にして炭にしてしまいました」と説明すると事実として「わかる」ことだけなら可能です。これを更に踏み込んで、影だけ残った写真、触れるとはらりと粉になって崩れてしまうであろう炭になった人間の写真を見せることで事の有様を実感を持って「理解する」ことがようやく出来ます。

「爆風により人々の体からは皮膚ががれ落ちてしまいました」と言葉で説明するより実際にその状態で彷徨っている人の写真を見た方がその有様はわかります。

 

「全ての人間がこうした写真を見るべきだ」と言いたいのではありません。例えば世の中には一般の人より共感力が高くて繊細な人もいます。またそのような方でなくてもこのような写真を見ることは楽しいことではありません。

大事なのは、自分の意志でそうしたいと思った時にそうした情報にアクセスができるようにしておく、手段が沢山あるようにしておくこと、そういうことができる知識を持っておくことかなと思います。

 

  • 実際に原爆の体験をされた方をかたさんとして招き講話を聴く

ここからは被爆地だからこそできたより濃い貴重な平和学習になってくると思います。

実際に原爆による悲惨さを体験した方の講話を聴くというものですが、それだけではありませんでした。思い出し、それを見える形で再構築するのはとても辛いだろうに、そのかたさんは自作紙芝居のようなものを作ってお話をして下さいました。

 

実際に目の前で地獄を見た体験者の方からの直接の体験を受け継ぐことができるのは貴重で有り難いものです。そしてこれほど生々しく原爆の恐ろしさを伝えてくれるものもありません。

 

以下 この方のご講話の内容を、覚えている限りここに記します。

家族や親戚も殆ど(または皆)死んでしまい、自分も傷を負いながら焼け跡の瓦礫の中をさまよいました。周りを悲痛なうめき声とともにうごめく人たちは、ついさっきまで自分が知ってた人間の姿ではありませんでした。まるでゾンビでした。向こうから目のあたりを押さえて歩いてくる人がいました。最初はそのあたりを怪我してしまったのかと思っていたが、段々と近くにくると、その手で爆風によって溢れ落ちでしまった目玉をなんとか押さえているのだとやっとわかりました。手をこちらに向けて助けを求める人がいました。その手を掴んでこちらへ引いてやろうとした瞬間、その掴んでいた部分の皮膚がそのままずるんとけてしまいました。皆さんにとっては想像すらできないことかもしれませんが、これが、戦争です。どうかこの話を忘れないで下さい。 

 

他の原爆経験者の語り部さんのお話でも「すぐ近くにいた知人(友人)が運悪く窓ガラスの近くにいたためにあの一瞬で全身がガラスまみれになってしまった」などのお話も聴いた記憶があります。

 

ある日突然目の前の自分の家族・友人が、あの写真で見たように惨たらしく傷つき死んでいったらと考えると、頭がどうにかなりそうです。

それを次の世代に伝えるためだからとはいえ、辛く苦しい記憶を呼び起こして命を削るように伝えて下さった体験者の方々には本当に心からの感謝をすべきです。そして平和や原爆について語り継いでいく決意改めて認識しなければならない。

  

受けてきた教育・平和学習の体験について考えること

私の立場

ここまであくまで一長崎人の経験としてですが、平和教育の一部をご紹介してきました。いかがでしたでしょうか。

 

今改めて振り返ってみても非常に生々しく感じる教育が多かったように思います。

しかしそれが私にとっては非常に勉強になると感じたし、そのような平和教育をして下さった先生方と体験を実際に伝えてくださったかたさんに心から感謝をしています。

 

原爆による被爆者のすさまじい怪我や遺体の写真を見ることに関しては、あくまで私の想像ではありますが、暫くは精神が不安定になってしまった児童が確実に何人もいたと思います。無理もありません。僅か7、8歳の児童が、消し炭と区別がつかないような人間の死体の写真、全身の皮膚がまるで布切れのようにぶら下がっている写真を見るのですから。平気な方が普通ではないでしょう。

私も写真を見た後暫くは何度もその光景が頭の中に思い出され、気分が悪くなってしまったことが何度もありました。

 

恐らくこのあたりは色々な議論があるかと思います。

小さい時からこのような学習をさせることでトラウマを植えつけてしまうのではないかという意見があるでしょう。

私は個人的には児童である早い時期からこうした教育を受けられたことはとても良かったと考えています。

 

私が小学生の時とその数十年以上経過した現代では、同じ小学生に対してでも戦争と平和・原爆についての教育・伝え方は変わっているでしょう。それはそれでいいと思います。この記事のタイトルに「本物の教育」なんてつけてしまいましたが、本物かどうかなんて本人が後になって分かるものです。今の平和教育が昔と比べて正解ではないとかそんなことを議論するつもりはありません。

 

ただ、全く悲惨さを自分の芯の中に刻みつけない、そうした痛みのない無難な伝達・形だけの教育になってしまって後々になりその無知から過去と同じような悲惨で教訓が生かされていないような事件が起きるくらいなら、嫌というほど壊れかけるほどに戦争や原爆の生々しくむごたらしい様を自分の中に叩き込む教育の方がいいと私は考えてしまいます。

 

これらの平和教育から「教育」「伝道」について考える

自分たちで原爆について調べ学習をすることで知識をつけ、

自分たちで原爆の犠牲者の数を可視化することで犠牲者の数と原爆の恐ろしさについて身をもって実感を持ち、

映像や写真で当時のありのままを見て当時の戦争の悲惨さをイメージし、

原爆の経験者の方から直接話を聴くことで更に実感を持ってイメージする

 

こうした多くの平和学習のお陰で私は確かに原爆・戦争を目の前に感じることができました。

 

 これらの平和教育・電動の殆どに共通していることが「その事象に自分を丸ごと近づけにいく・ぶつけにいくこと」だと思います。表面的・形式だけの伝道ではなく、自分の身体の中身の方までその感覚を入れる・近づける。

 

そしてそこには強い感情が伴います。だからこそ苦しくなります。ただただ事実を知っていさえすればよいのならわざわざ面倒な感情なんて持ち込む必要はないのでラクです。しかしその分深く刻み込まれる学びはない。

太陽のようなものかもしれません。核心に近づくほどに学びも増すが痛みや苦しみも大きくなり、遠ざかると逆に軽傷で済むが残るものも少ない。

 

一時精神的に危なくなるほど深く感情を伴わせ学んだ平和学習の体験があるからこそ、昔の防衛相の「原爆はしょうがない」発言に抑えられないほどの深い憤りを覚えました。

考えず思考停止するのはラクだし、傷つきにくいです。

一つ一つに感情的に反応していたら勿論身がもちません。

しかし深い議論をするためには必ず感情が入っているはずです。教育・伝道にあたって感情を暴走させっぱなしも良くはありませんが、少し負荷がかかることを受け入れつつ、問題に対して少しだけ感情を開いて自分側からそこへ踏み入るという姿勢は覚えておきたいところです。

 

何かを学ぶときは絶対に苦しまないといけないのか、と意見が出てきそうですが、少なくとも戦争や原爆についてはそうでなければ次の世代にも語り継ぐこと不可能であるというのが持論です。問題の性質・次元が違いすぎる。

 

今回の平和教育の姿勢は必ず何かを学ぶ時の姿勢のヒントになるのではないかと考えています。いつだって自分が対峙しようとする問題には、向き合うにあたっての覚悟やリスクを自覚し、問題に真摯に向き合おうとする姿勢は大事。そうした姿勢は平和教育以外でも大切なカギになり得るのではないかと改めて感じることもできました。

 

 語り継いでいってほしい、原爆に関する歌 

以下では個人的にいつまでも語り継いでいきたい・伝え続けていきたいなと感じている歌を少しだけ歌詞を一部抜粋してご紹介します。歌詞を全ては載せきれないので是非歌で全て聴いてみて下さい。

 

  • 『折り鶴』(作詞・作曲:梅原司平)(1番の歌詞)

生きていてよかった それを感じたくて

広島のまちから 私は歩いてきた

苦しみをことばに 悲しみをいかりに

きずついたからだで ここまで歩いてきた

この耳をふさいでも 聞こえる声がある

この心閉ざしても 溢れる愛がある

はばたけ折り鶴 私からあなたへ

はばたけ折り鶴 あなたから世界へ

折り鶴

「折り鶴」を歌う時は昔から頭の中にこういうイメージがあります

 

  • 『青い空は』(作詞:小森香子 作曲:大西進)(1番の歌詞)

青い空は青いままで 子どもらに伝えたい
燃える八月の朝 影まで燃え尽きた
父の母の 兄弟たちの
命の重みを 肩に背負って 胸にいだいて

  

  • 『死んだ女の子』(作詞:HIKMET NAZIM/日本語訳:中本信幸 作曲:外山雄三)(3番と最後の歌詞)

炎がのんだの あたしの髪の毛を

あたしの両手を あたしのひとみを

あたしのからだはひとつかみの灰

冷たい風にさらわれていった灰

 (中略)

戸をたたくのはあたしあたし

平和な世界に どうかしてちょうだい

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉がしゃぶれるように

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉がしゃぶれるように

 

 

 最後に

平和祈念像

北村西望作。天を指す右手=“原爆の脅威” 水平に伸ばした左手=“平和” 軽閉じた瞼=“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いが込められている。

 

私は今現在も長崎に住んでいるというわけではありません。

北陸の大学に進学した後、現在は静岡県に住んでいます。

今後もまた別の地を転々として生きていくつもりです。

しかし出身地から距離を置き、他の場所で生きてみて更に俯瞰ふかん的・相対的に長崎の原爆や平和について考えることができるようになりました。

そうすることでむしろ視野も広がり、理解が深まりました。だからこそ、こうして改めて自分の見解について整理ができ、記事に書こうと思えたのです。

(冒頭の話の長い間同じ土地に居続けている観光案内係のおじさんではありませんが、同じ所に留まり続けていると、自分では意識していなくても視野が狭くなり思考が凝り固まってしまうものです。尚ずっと同じ所にいること自体を批判するつもりはありません。)

 

以上に原爆や戦争についての平和教育の体験と自分の考えを記してきました。

いかがでしたでしょうか。

 

数十時間かけて勢いでこの文章を書いている今ちょうど、長崎の原爆投下の時刻が過ぎました。静岡にいる今、長崎のように黙祷をするためのサイレンは聞こえませんでした。

私にとって当たり前のことも他の地域では当たり前ではないのです。

同じようにいつか、私が受け継いだような原爆の当たり前の記憶も、当たり前ではなくなり消えてゆくのでしょうか。

 

烏滸がましくも一長崎人として使命感を感じ書いたこの記事ですが、これがきっかけとなり少しでも以前より原爆のことや平和教育について踏み込んで考えていただく機会になればとても嬉しいです。

 

「記事を読む意義」なんてエラそうなことも前半でつらつらと書いてしまいましたが、その中で少し触れた「自分なりの使命」のようなものについて立ち止まって振り返ることができましたでしょうか。

この記事では私だからこそ伝えられること・伝えるべきことがあると感じてその想いを書きました。同じように私は全く知らない、けれど皆さん一人一人にしか伝えられない特別な想いがあると想います。

この記事で少しでも私が伝えたい原爆・平和学習のことや「伝える」ことについての想いが読んだ方に伝わり受け継がれていくと嬉しいです。そして同じように私も誰かの大切な想いにこれから沢山触れてその伝道者になれるとしたら素敵だなと思います。

 

最後までこんなまとまらない記事を読んで下さり、有り難う御座いました。

ほんの少しでも、読んでくださった方にとってプラスになれば幸いです。

 

 

そして最後に

広島・長崎の原爆により亡くなった方々、戦争によって亡くなった全ての方々のご冥福を心よりお祈りいたします。 

 

2020年8月9日